夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 具志堅用高さん

 まさに“百年に一人”の男
 殺気を放っていた現役時代


協栄ジムから出た3人目の世界チャンピオンは、亡くなった金平正紀会長が“100年に1人の男”と、オーバーなキャッチコピーを付けた具志堅用高である。獲得したのは創設されて間もないジュニア・フライ級(現ライト・フライ級)の王座だった。
 具志堅がプロ入りした当時(1974年春)、最軽量のクラスはフライ級。18歳のガリガリ少年にとっては減量無用。同級のリミット(最大許容ウエート)は50・8キロであるが、その近辺まで増量するのに苦労するぐらいだった。
 具志堅のデビュー戦の相手は、後に日本チャンピオンになる牧公一(田辺)。牧はフライ級がナチュラル・ウエート。具志堅は水増しだった。そんなハンディがあって、デビュー戦は判定勝ちにとどまる。「こんなはずでは」と自分の目を疑った金平さんは、真価を発揮させようと、2戦目も牧にぶつけ
る。
 またも判定どまり。金平さんが付けたキャッチフレーズは大風呂敷であったか、とわれわれは思ったものだ。その翌年、具志堅と金平さんに“神風”が吹いた。WBAとWBCの世界機構が、相次いでジュニア・フライ級を新設したのだ。
 「具志堅のためにできたクラスだ」と金平さんは高らかにラッパを吹いた。これがラッパで終らず、現実のことになるのだから、脱帽するしかなかった。新しいクラスで戦う具志堅は、まさに水を得た魚だった。本番(世界挑戦)を前に、3連続KOでいかに新クラスにマッチしているかを実証した。
 とはいえリトル・フォアマン、つまりヘビー級ジョージ・フォアマンのミニ版である強打の王者グスマン(ドミニカ)を迎えたプロ9戦目の若造が、まさか王座を奪取するとは予測できなかった。それだけに、7ラウンドKO勝ちは衝撃的だった。この試合のビデオは、何度見ても飽きないほど面白い。
 具志堅はこのタイトルを13回連続防衛して国内で不滅の記録を樹立する。21歳4カ月で戴冠して25歳9カ月で失墜するまで、およそ4年半GUSHIKEN2.JPG - 12,689BYTESの長きにわたって王座に君臨したわけであるが、体格が伸び盛りの若者に、ウエート面での激変があった。
 王位にあった最後のころ、減量によって内臓がボロボロになっていたのだ。王座を陥落した後の控え室で吐しゃしたのは、軽量後の食べ過ぎという問題ではない。疲弊した内臓が、食べたものを消化できなかったのだ。
 野放図な健康管理で内臓を弱らせたわけではない。酒、タバコ、夜遊びといったボクサーの外敵と絶縁したストイックな生活を、最後まで押し通した。試合以外の時でも、身体から殺気がほとばしっていた。あれをオーラというのだろうか。
 「ちょっちゅね」。愛敬ある言動がファンに親しまれるようになったのは、引退してからのこと。キリンビールのコマーシャルに起用されているように、元々はビール好きだったという。足掛け8年の現役時代に1滴も飲まなかった好物を、今は思いのままにたしなんでいるそうだ。苦あれば楽あるの人生訓そのままである。

 

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