夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』

米倉健司会長

チャンピオン・メーカーを烈火のごとく怒らせた思い出

 業界の暴れん坊、全日本パブリックジムの田中敏朗会長が、ことのほか目をかけているのが、ヨネクラジムの米倉健司会長である。同じ福岡県の出身で明大の後輩。大学時代は自分のアパートに米倉さんを同居させるなどして面倒を見たのだという。
 2人とも明大を出てプロ入りするが、実績は米倉さんの方が上回る。それには田中さんの人のよさを物語るこんなエピソードがあった。先にプロ入りした田中さんがフライ級なら、後を追った米倉さんも同じクラス。2人で出世争いをするのは忍びないとして、田中さんはバンタム級に転向した。当時はジュニア・クラスがなかったので、今の制度でいえば2階級上げたわけだ。
 米倉さんはチャンスを無駄にせず、1959年当時としては最速の、プロ5戦目で日本チャンピオンになった。その勢いを駆って7戦目に世界挑戦したがパスカル・ペレス(アルゼンチン)に判定負け。
 その後、バンタム級に転向した米倉さんは東洋チャンピオンになり、62年10月、青木勝利にタイトルを奪われた1戦を機に引退、間もなく大塚にジムを開いた。目白に移転したジムを最初に取材に訪れたのは、柴田国明が世界チャンピオンになったかなる前のこと。 名刺を差し出した。後日も取材訪問は続くが「あなたどこの社でしたかね」と尋ねられること3度、4度。顔を覚えてもらうまでに、えらい時間がかかったものである。人の名前を覚えるより、選手の育成に集中していた結果だと思う。
 だからこそ協栄ジム・金平正紀会長(故人)の8人に次ぐ5人の世界チャンピオン育成に成功したのだ。“名選手、名監督ならず”という勝負の世界の通説がある。現役でも実績を残した米倉会長は、そんなジンクスを見事に破った。
YONEKURA 030814.JPG - 15,846BYTES 5人チャンプをつくる過程で、米倉さんと私の間で、激烈な対立があったのを思い出す。ジム所属の選手をテスト試合なしに1階級上の世界チャンピオンに挑戦させることが明らかになった。
「階級制を無視した暴挙である」と私はデイリーのコラムで厳しく指弾した。それとは関係のない取材でジムに行くと、米倉さんは烈火の如く怒っていた。「人のビジネスを妨害するつもりか」というわけだ。
 当時としては私にも言い分はある。練習中の選手の前でみっともない怒鳴り合いになった。今は亡き松本清司トレーナーが「2階に上がってやってくれ」とその場は抑えてくれたが、2階の会長室で延々と怒鳴り合いは続いた。
 結局物別れでジムを辞したが、よくぞ殴られなかったものだと思う。元ボクサーはみだりにコブシを使ってはならない。そんな業界のしきたりに従ったのだろうか。
 その選手は世界戦に負けた。後日、後楽園ホールで「あんたの言うとおりでした」と頭を下げられた。でも頑固頭だったのは私かもしれない。1階級上げてのぶっつけ本番世界挑戦は、今や珍しくない。結果も出ている。WBAやWBCが安易に規制を緩和するからだ。そんな趨勢を先取りしたのが米倉さんか。あの激烈な口論に、実は負けていたのだと、今にして思う

 

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