サンデー・パンチ

粂川 麻里生

 底知れぬ大器、江口慎吾

 したたかな試合ぶりと個性的な自己演出で中量級の焦点になりつつあった佐々木基樹が、大橋ジムの新鋭・江口慎吾に痛烈に切って落とされた。試合は5回で唐突なエンディングとなったが、非常に印象的な、見どころの多い試合だった。
 世界を狙う逸材として期待を集めていた湯場忠志を激闘の末に葬り、一気にスターダムにのし上がった佐々木だが、僕は江口は佐々木にとって湯場以上の強敵だろうと思っていた。湯場は、ツボにはまった時の強さはたしかに凄いが、佐々木戦がそうだったように、変則ボクサーが相手だとしばしば心理的に動揺して、スタイルを崩されてしまうことが珍しくない。その点、江口は一見地味だが(これは、非常によくまとまったスタイルを持っているからだ)基本がしっかりしており、ジャブ、ストレート、左右フック、アッパーと、すべてのパンチがバランスを崩すことなく繰り出すことができる。その上、左右のどのパンチにも一発で試合の流れを決定付ける威力を秘めている。
 江口が敗れたのは、東日本新人王の決勝戦で井上ナオトにダウン応酬の末に少差判定を落としたものだ。この試合では先制のダウンを奪われてたしかにモロいところも見せたが、よく立ち上がってぐいぐい追い上げ、終盤にはダウンを奪い返している。格下と思われた井上に名を成さしめた試合とはなったが、プロらしい粘りとガッツを持った井上と最後まで競り合った展開は、江口のポテンシャルを示すものでもあった。
 果たして、試合は王者佐々木にとって苦しい立ち上がりになった。湯場ほどではないが佐々木よりは一回り体が大きい江口が重くて速いジャブを連発しながら前進すると、佐々木は自分の距離を作れない。佐々木も持ち前のトリッキーな右フックを試みはするが、プレッシャーをかけられた状態からのパンチなので、湯場に対して放ったときのようなシャープさはない。江口は自分のジャブの勢いを駆るかのように風をまいて前進、ジョン・ムガビを思わせるような右の重い長距離砲を立て続けに放って王者を追い立てる。1,2回と、江口の右ストレートやロングアッパーが唸りを上げて佐々木の身体にめり込んだ。佐々木の表情には苦しさが浮かび、「歴史が証明する」はずの彼の力が早くも壁に突き当たったかに見えた。EGUCHI-SASAKI.JPG - 17,533BYTES
 だが、3回に入り、僕は「さすがくせモノ佐々木だ」と唸った。江口の強烈なジャブで距離を作れたない佐々木は、あっさりを接近の意思を放棄したのである。江口のジャブの奔出に抗してまで前進するのはやめ、遠い距離を不愉快そうに旋回する。体はかなり斜に構える「ウィテカー式」。これで、ひとまずは江口の重厚なプレッシャーを直接受けることはなくなった。その上で佐々木は、リーチでは劣っているにもかかわらず、真剣にジャブを突き始めたのだ。江口のような真正面からプレッシャーをかけるジャブではなく、サイドステップを踏みつつ、アウトサイドから切り込んでくる嫌らしいジャブだ。これがしばしば江口の顔面をとらえ、挑戦者は勢いを削がれた。
 簡単には入れないと見るや、むしろあえて距離を取り、それでいて自分のジャブは当てるという佐々木の懐の深い上手さ! 「なるほど、湯場戦はフロックではなかった」と納得した。あれほど存在感のあった江口の右ストレートも止んでしまった。あるいは、4回に佐々木の頭頂部を打ったことも影響したのだろうか。僕は「これで分からなくなった、やはりチャンピオンは簡単にはなれないな」と、江口の試練を予感した。
 ところが5回、佐々木がロープに近い位置でサイドステップしようとした瞬間、江口の左ショートフックが恐ろしい鋭さでアゴをえぐった。完璧なレフトフックだった。佐々木がダウンしなかったのはむしろ驚きで、明らかに王者の意識は半分以上飛ばされていただろう。江口がこの大チャンスを逃すはずはなく、右ストレートが炸裂して佐々木はニュートラルコーナー下に叩きつけられるダウン。驚異的な粘りで立ち上がったものの、追撃をしのげずストップとなった。
 新人王戦時代から身体能力の高さ、ボクシングセンスには期待の声が高かった江口だが、今回はさらに深いボクサーとしての器を示した。したたかな王者佐々木が見せた巧妙な距離の切り替えにわずかな時間で対応し、右ストレート主体の攻めから突然放った左フックで試合を決めてしまった。基本に忠実なバランスのいいボクシング、それでいてトリッキーな相手に適応できるフレクシビリティ、どのパンチでも倒せる強打力、まさに大橋秀行のパンチ松本好二のテクニックを受け継いで、これからどれくらい伸びるのか想像もつかない大器が浮上してきた。

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