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ゲストコラム : トレーナーの目 vo.4

石井 敏治 (新日本木村ジム・トレーナー)

練習生のアドバイスを素直に聞いたチャンピオン

 私がボクサーに関心を持ったのは、1949年5月1日に新橋にあった新和拳に入門して、ここで、前日の4月30日日本ウェルター級タイトルを河田一郎から獲得した新チャンピオンの辰巳八郎との出会いからであった。
 彼は1929年2月17日生まれ、私は同年同月23日生まれで、同年輩ということもあって、チャンピオンと練習生という立場にもかかわらず、すぐに友達となった。当時辰巳は日本チャンピオンといっても狭いジムのリングの脇にあった三畳足らずの部屋で寝起きしていた。1949年つまり昭和24年といえば、日本は敗戦の混乱からようやく立ち直りつつある時で、いまだすべてが貧しかった。新和拳のジムには水道こそ引いてあったが、シャワーすらなかった。しかも若松会長はボクシングに関しては、ずぶの素人で、指導方法ももっぱらファイト、ファイトで「打て」「前へ出ろ」「横に回れ」の掛け声ばかりで、テクニックを教えるというにはほど遠いものであった。フックを強く打たせるために、事前に大きなモーションをつけて打つ指導をしていた。しかし、辰巳は生まれ持った比類稀なる優秀なボクシング・センスに助けられて、若松会長の不合理なアドバイスを受け入れることなく、独創的にボクシング・テクニックを開発して行った。そのバックボーンとして、健康に十分注意していたので、風邪を引くことなどなかった。その上とにかく練習熱心だった。早朝のロードワークはいかなる場合でも欠かしたことなどなかった。私と旅行した時でも、彼は必ず早朝ひとりでロードワークをした。新橋のジムが立ち退きを迫られ、一時ジムがなくなった時があった。その時は、辰巳と中学生4、5人と私とで、夕方日比谷公園の野外音楽堂に走って行き、私がストップ・ウォッチを手にタイムを取って練習したこともあった。
 私が入門して2カ月ぐらい経った頃、いまだに私は辰巳と友人ではなかった時のこと。
私は辰巳が右ストレートを打った瞬間、蹴り出した右つま先がフロアから離れ、左足の一本足打法になるのが気になっていたので、辰巳に「右ストレートを打った時、両足は左右の足指で、フロアに突き刺さるように立つ方が、百パーセント重力を利用できるのでパンチが強くなるのではないですか、右足が上がるのは疑問ですよ」と進言してみた。
 すると辰巳は、右ストレートを打つ動作を何回か繰り返して、「確かに君の言う通りだ。良いことを指摘してくれたね。僕にはこういうことを教えてくれるトレーナーがいないんだよ。これからも、気が付いたことがあったら指摘してね」
 私はびっくりした。相手はチャンピオン、こちらは入門2カ月の練習生。こんなに素直に人の言葉を受け容れてくれる人がいた。辰巳の素直さとボクシングを徹底的に研究し、そのためには人の試合も数多く見て、良いところは取り入れて自分のものとして消化していた。当時の重量級では珍しい軽快なフットワーク、ジャブを駆使して、右ストレートを決め込む、華麗でオーソドックスなボクシングをリング上に展開した辰巳八郎の勇姿は、今でも鮮明に私の脳裏に浮かぶ。(写真は昭和27年7月のフィル・リゾ戦)


現在も新日本木村ジム・トレーナーとして指導に当たっている石井氏

 
 
月 前田 衷  リングサイド・ビュー

火 三浦 勝夫  キャッチ三浦のアメリカン・シーン

水 ゲスト  ゲスト登場(石井敏治、他)

木 芦沢 清一  夢かうつつか−酔いどれ記者が行く

金 新田 渉世  新米ジム会長奮戦記

土 ノスタルジア&Old Timers  Once upon a time...

日 粂川麻里生  サンデー・パンチ

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