夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
中島成雄さん
記者がかいた大汗、大恥
ヨネクラジムで3番目に生まれた世界チャンプはライト・フライ級中島成雄である。駒大卒の学士ボクサー。
しかしインテリというより、豪放磊落(らいらく)なイメージの方が強かっ
た。太く短く終ったボクサー生命も、そんな性格と無縁でないような気がす
る。世界タイトルを1度も守ることなく王座から陥落すると、簡単にモチベーションを失った。
再起戦でKO負けしたのがその証拠。すると、ねちねちボクシングにしがみつくことなく、あっさり引退してしまった。プロ通算わずか19戦。技術的には上積みが望める27歳だった。淡白と言おうか無欲と言おうか、人間的には好感が持てるが、ボクサーとしては惜しまれる性格だった。
米倉健司会長の世界チャンピオン作りの極意は、目を付けた選手を手元(自宅近く)に置いて、朝のロードワークに始まる生活に、監視の目を向けることにある。中島さんを逸材と見込んで、その方式を取った。
元世界フライ級チャンピオンのバーナベ・ビラカンポ(フィリピン)らに2
敗するものの、米倉会長の指導よろしく、順調にプロの水に馴染んだ中島さんは、16戦目にして金性俊(韓国)からWBCのベルトを奪取した。
辰吉丈一郎の8戦目、具志堅用高と井岡弘樹の9戦目という破天荒な記録には及ばないが、渡嘉敷勝男と並んで、20戦以内の世界タイトル奪取は早い方だ。米倉会長が見込んだ才能に間違いはなかった。
ただ初防衛戦の相手が悪かった。日本人キラーのイラリオ・サパタ(パナマ)だ。ちょこまかと手を出すラテン・ボクシングにしてやられた。このタイトルはいったんアマド・ウルスア(メキシコ)の手に渡り、それを友利正(三迫)が奪うのだが、またもサパタに持って行かれた。
友利さんの項で書いたように、精一杯戦って勝ったと思った試合を、手数重視の採点で負けにされ「戦いようがない」と嘆いた友利さんはリマッチで無謀に突進して玉砕するしかなかった。そんな手の合わないボクサーに中島さんも涙を呑んだわけだ。
引退した中島さんに、レギュラーではないが、テレビ解説の仕事が付いた。
そのことが私への災難として振りかかる。
一件に登場して来るのは、またもやサパタだ。1986年4月、穂積秀一(帝拳)が山梨県韮崎市でサパタに挑んだ。これを中継したのがテレビ東京で、解説が中島さん。
試合の前日、中島さんは事件に巻き込まれて、韮崎に来ることができなくなった。テレビ東京の村山ディレクターが、ありがた迷惑にも代役に白羽の矢を立てたのがこの私。
必死に断ったが「われわれを助けると思って」に折れた。しゃべるのは苦手だから全く自信がない。アナウンサーの杉浦滋男さんに「技術的なことは分らないので、エピソードだけにして」と頼み、了解してくれたのに、いざとなったら技術面の話も振って来るので、赤面しながらマイクに向かったのを思い出す。中島さんが私にかかせた大汗、大恥だった。
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