夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
川島郭志さん
ボクシング版“巨人の星”三谷大和父子は、傷心の父親が息子から去って行くという絵図になった。実は元WBC世界スーパー・フライ級チャンピオン川島郭志さんにも“リングパパ”が付いていた。こちらのコンビは、子の方から父がボクシングに口を挟むことを遠慮願った。三谷ケースと逆である。
川島さんの父・郭伸さんは、42歳にしてアマのリングに立ったという変わり種。ボクシングを第2の伴侶として、徳島のアマチュアボクシング連盟の役員をしていた。その郭伸さんに川島さんは3歳のころから、5歳上の兄・志伸さんとともに英才教育を受けた。その厳しさは世界王座在位中に発刊した自伝「お母ちゃんに捧げるチャンピオンベルト」に詳しく書かれている。
川島さんが進んだ徳島の海南高にはボクシング部がなかったという。もう1人の相棒と中学校の体育館を借りて練習。それでも各種の大会には出場した。
名義上の海南高ボクシング部、実質川島道場という形だったのだろう。
3年時(1987年)のインタハイで鬼塚勝也、渡久地隆人を連破してフライ級優勝。翌年春、この3人がそろってプロ入り、ボクシング界を大いに盛り上げた。高校での近況では川島さんがbPなので、プロでの期待度も一番高かった。プロ入り発表の席で米倉健司会長は「150年に1人の男」と見栄を切った。具志堅用高の“100年に1人”の向こうを張ったのだ。
川島さんがプロ入りして間もなく、郭伸さんから分厚い手紙が私に届くようになった。自慢の息子の昔話などが、細かく綴られていた。何気なく同業他社の記者にそのことを漏らすと「自分にも来ている」とのこと。1通書くのに何時間もかかる手紙を、複数の記者に出すとは…。非常に感心したものである。
さて川島さん。88年夏、順調にプロスタートを切ったが、同年暮れの東日本新人王トーナメント決勝で、高校時代のライバル、ピューマ渡久地に見事なまでのリベンジKOを食ってしまう。1戦置いてまたもKO負け。日本チャンピオンになる前に、ジレンマに陥ってしまった。
ここで川島さんはへこたれなかった。ウィークポイントの打たれ弱さをカ
バーするために、鉄壁のディフェンス習得に取り組む。一方で息子の資質を全面的に信じる郭伸さんは、米倉会長の指導に疑問を抱いたのではないか。もらった手紙にそんなニュアンスがあった。
川島さんは板挟みにあって苦悩したと思う。その結果選んだのは、すでに4人の世界チャンピオンをつくって実績を残していた米倉会長の方だった。郭伸さんは川島さんのボクシングに口を挟むことを許されなくなった。
自伝の前半は郭伸さんとの関わりで占められているのに、日本から世界チャンピオンへと駆け上がる経過の中に、郭伸さんとの絡みは一切ない。独特のディフェンス技術“アンタッチャブル”を代名詞に残した川島さん。その開発に郭伸さんの関与はなかったが、キャリア全体を振り返ると、父子鷹のイメージを消すことはできない。
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