夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 桜井孝雄さん
 (元東洋バンタム級王者、現ONE−TWOジム主宰)

 「金メダリストのプロ転向」特ダネの裏話

  三迫ジムから輪島功一、三原正、友利正の3世界チャンピオンが出ているが、惜しくも世界王座を逸したのが、64年東京オリンピックでバンタム級金メダリストに輝き、騒がれてプロ入りした桜井孝雄さんだ。
 ボクシングで初の金メダリスト桜井さんのプロ入りに際しては、複数のジムで激しい争奪戦が展開され、スポーツ紙の特種合戦も熾烈を極めたという。やがて各社の取材合戦は三迫ジム入りへと収斂されて行き、デイリースポーツの先輩記者・朝熊伸一郎さんはフロントページ全部を使って、三迫ジム入りの経緯やプロでの活躍展望などを出稿して、ゴーサインを出すだけの態勢を整えていた。
 が、結果は日刊、スポニチ両紙に抜かれたのだった。両紙が手の込んだ工夫を凝らしたのも、他紙の追随を許すまじという並々ならぬ方針の表れではないかと思う。
 ボクシング記者クラブは毎年、年次総会という名の忘年会を催す。桜井さんが金メダルを獲った当時は、熱海や鬼怒川など地方都市で開催されるのが常だった。64年暮れの総会がどこで開催されたかは、聞いたけど忘れた。多分、熱海だったと思う。
 酒の付き合いでは人後に落ちないさ朝熊さん。ある魂胆が隠されているとも知らず、勧められるままに杯を重ね、ぐでんぐでんに酔っ払って寝た。白河夜船のそのころ、特種紙を積んだ2社の発送車(新聞運搬車)は、販売店へ駅売店へと走り回っていたのである。
 そしてそのころ、三迫仁志会長は特種社からあてがわれた都内のホテルで寝ていた。丁寧に扱われたはずだが、万が一にも他社の記者と接触させないための、体のいい軟禁だった。翌朝、朝熊さんにはハンマーで後頭部を殴られたような衝撃が待っていた。特種が載ったスポーツ紙をビリビリ破り裂いて男泣きしたと後に話してくれた。
 スポーツが多様化される前のことであり、ボクシングは主要な柱の1つだった。スポーツ紙の扱いが大きいだけ、ボクシング担当記者は重い責任感を持ち、抜いたり抜かれたりの特種合戦に意地と誇りをかけていたこがよく分ったのだった。
 そんな時代、桜井さんが世界チャンピオンになるかどうか、ファンは熱視線を送った。
金メダルは案外、十字架になったのではないか。負けられない。ともかく世界タイトルを取るまで勝ち続けるしかない。この宿命が、マスコミに“安全運転”と揶揄的に呼ばれる手堅い戦法を身につけさせた。
 ともあれ無敗22連勝で世界挑戦にこぎつけた(68年7月)。相手は5カ月前にファイティング原田から王座をもぎ取って行ったライオネル・ローズ(豪州)。この試合は私も日本武道館で見ていたが、一瞬「やった!」と思った。2ラウンドに決め手の左ストレートできれいにダウンを取った時だ。
 しかしここでは負けないはずの安全運転が裏目に出た。逆転の判定負けを喫するのだ。
「力量では負けていないんだから、もう少し攻めていれば」と惜しむ声が多かった。まさに“大魚を逸す”とはこのこと。三迫ジム、いや日本は世界タイトルを1つ損したのではないか。今でもそんな思いがする。

  コラム一覧 バックナンバー



(C) Copyright2003 ワールドボクシング編集部. All rights reserved.