夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
三原 正さん
三迫ジム2人目、輪島功一さんと同じジュニア・ミドル級(現スーパー・
ウェルター級)の世界チャンピオンになった三原正さんは、なかなかの論客だった。うまいことばかり言って、行動が伴わない人物を“口先男”というが、三原さんの場合は、口達者、手達者で世界チャンピオンになったのだから“有言実行”のボクサーだったと言ってもいいだろう。
三原さんは日大時代の1977年、アマチュアの全日本選手権ライト・ミドル級優勝を飾っているように、翌年春のプロ入りに際して、三迫仁志会長の期待はそれなりにあったと思う。しかし、同時に中大から三迫ジムに入った大久保克弘という選手の方が、より大きな期待を背負っていたようにわれわれには見えた。
なにしろ大久保は八戸電波高時代から、天才ボクサーの聞こえが高く、中大に進んでからも、74年はライト級、76、77年はライト・ウェルター級で、つまり4年間で3度もアマの全日本を制しているのだ。そろってプロ入りした当時、主役は大久保選手、三原さんは脇役のように見えたものだ。
やがて主役は挫折、脇役は世界チャンピオンへ登りつめる。この逆転の起因は何だったのだろうか。漏れ伝わるところによると、青森県人の大久保選手は、人のいい大酒のみだったという。酔いどれ記者が親愛の情を持つことができる取材対象であったが、ジムや試合場の控え室で、それを確かめる作業は怠った。
逆に三原さんには聞いたことがある。「大学で無理に飲まされたことはあるけど、好んで飲むことはないですね」という答えだった。偽りはないと思う。三原さんのような緻密な理論家に、大酒のみはまずいない。大久保選手のように、素質がありながらそれを生かす設計を描けず、ボクサーとして敗北したのはアバウトな人間だからではないかと思う。
三原さんと大久保選手の逆転模様は、比較的早い段階で訪れた。三原さんはデビュー2年目、わずか5戦目に東洋太平洋スーパー・ウェルター級チャンピオンになる。
日本タイトルさえ取れない大久保選手を尻目に、そのまま突っ走り、無敗の15連勝でWBA同級王座に到達したのは81年11月。アメリカのロチェスターという土地で、空位のWBA王座をロッキー・フラットという選手と争い、15ラウンドをフルに戦い抜いて勝ったもの。
この1戦、取材のために同行した記者はいなかったと思う。期待は薄かったのだ。輪島に続いて、工藤政志(熊谷)も制覇したとはいえ、当時のジュニア・ミドル級は、日本のボクサーには荷の重いクラスであった。しかも敵地での試合というハンディがあった。
予想を覆して堂々、史上5人目の海外世界王座奪取をやってのけた三原さんは、ひっそりと出発した成田空港に、にぎにぎしい歓迎を受けて帰国した。
「どうだい、俺は世界を取っただろ。ボクシング記者は見る目がないんだ
よ」。そんな三原さんの声なき憎まれ口が聞こえて来る。確かに1本取られました。
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