夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
三迫仁志会長
不運のボクサーから、強運の会長へ
輪島功一を世界チャンピオンに育てた三迫仁志会長は、非常に運の強い人である。世界チャンピオンには、実力だけでなく、運にも恵まれないと、なれないといわれる。まして世界チャンピオンのマネジャーたるジムの会長には、ビジネス能力プラス運が不可欠だ。三迫会長自身は世界チャンピオンになれなかったが、輪島に続き三原正、友利正と都合3人の世界王者を育てたのは、強運あってのことである。
三迫会長は四国は愛媛県の出身。西条高時代に同郷の初代野口ジム会長・野口進氏(故人)に見出されて、東京に連れて来られた。戦後間もなく、物資の乏しい時代だった。昔気質の進会長は「人様から預かった子は、自分の子より大切にしなければならない」との考えから、三迫さんをわが子以上に優遇したのだった。ボクシングを終えて社会人になった暁に、立派に世間に通用する人間であるために、長男の修さんとともに明治大学で学ばせた。
私は三迫さんの現役時代の試合を見ていないし、取材もしていない。すべては三迫さんが会長になってから、思い出話として聞いたことである。さて、明大時代のこと。三迫さんは進会長から買ってもらったピカピカの皮靴を履いて学校に通った。一方の修さんはズック靴だった。2人に皮靴を履かせたいのが親心というものであるが、耐乏生活を強いられた時代、それは叶わず、人様の子である三迫さんが優遇されたのだった。人情紙のごとく薄くなった当節、もはやあり得ない話であるだけに、三迫さんから何度も聞かされ、感動したものである。
三迫さんにも、人知れぬ苦労や悩みはあっただろうが、傍から見ると福の神に見守られて、常に陽の当たる場所を歩いている。ボクサーとして、世界挑戦が内定しながら実現しなかったことには痛恨の思いを残すが、東洋フライ級チャンピオンとして、白井義男さんが去った後のリングを埋め、その存在感は大きかったとボクシング史に記されている。
引退後、一時テレビ局(NET=テレビ朝日の前身)に入社するが、思い直してボクシング界に戻り、ジムを興した。激しい争奪戦に勝って、東京オリンピックバンタム級金メダリストの桜井孝雄を獲得するなど、運とは別次元の剛腕を若い時から持っていたのは確かだ。その延長線にフジテレビの窓口としてのボス的存在があり、全日本ボクシング協会(現日本プロボクシング協会)の会長という要職、つまり陽の当たる場所があったという次第だ。
三迫会長がマネジャーとして、また業界を束ねるリーダーとして、凄腕の人であることはまぎれもない事実であるが、私が必要以上に運の部分に感じ入るのには、こんなわけがある。三迫プロモーションでよく麻雀をやったという話は山縣さんの項で書いた。そんなある時、三迫さんはリーチをかけ、河底(はいてい)で国士無双の役満をつもったのである。麻雀を知らない人には理解できないだろうが、やられた私たちは、神がかりなツキに呆然としたのだった。
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