夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
レパード玉熊さん
青森を象徴する? じょっぱりチャンプ
国際ジムからロイヤル小林に次いで世界チャンピオンになったのは、フライ級レパード玉熊である。前回、彼を抜かしてセレス小林に飛んでしまった。いかにも酔いどれらしいうかつさではある。「おしん」の国、青森出身の玉熊は(編集部註・本コラム掲載後「おしんは山形だ」とお叱りを受けました。“酔いどれ記者”ですので、編集部がもっときちんとチェックしなくてはいけません。失礼いたしました。)、寡黙で性格が地味。ボクシング史にひっそりと名前を留めているような気がする。 もちろん、世界チャンピオンになるような男のこと、内に秘めたる闘魂は、常人のそれでないことはいうまでもあるまい。辰吉丈一郎や畑山隆則は、人前でそれを披瀝するパフォーマンスを持っていた。明るく派手なオーラを発散、試合内容もさることながら、キャラクターで人気を博したものだ。 畑山も青森県人であるが、玉熊と比べてどちらが県人を象徴しているかといえば、文句なしに玉熊であろう。口下手、クソ真面目、ネクラ…。人を殴り倒すことを至上の命題とするボクサーなるものと、温和な玉熊はイメージの上で、どうしても符合しなかったものだ。 玉熊が真のボクサーであることを発見したのは、世界タイトルを取った試合である。世界の頂点を極める過程で、玉熊はライト・フライ級の全日本新人王、フライ級の日本チャンピオンになっているが、その持ち味は堅実なアウトボクシングにあった。性格を試合で発露するかのように、地味で変化に乏しかった。 90年5月、李烈雨(韓国)からWBAフライ級タイトルを奪取した1戦は、玉熊のイメージを180度変える内容だった。長身を利したアウトボクシングが得意のはずの玉熊が、なんと自ら接近戦を仕掛けたのだった。玉熊が見せた初めての戦法であるが、実に様になっていた。 長いリーチを持て余さないように、ショート連打でチャンピオンを追い詰め、10ラウンドにレフェリー・ストップを呼び込んだ快勝には、未知との遭遇にも似た興奮を覚えたものである。生涯レコードでKO率5割に満たないテニシャン(パンチャーに対する)が、晴れ舞台でKO(TKO)を演出したのだった。 思えばこの変身、必要に迫られてのものだったに違いない。玉熊は後に左目網膜剥(はく)離で引退するが、李に挑戦する前、すでに視力に異常を感じていたのではないか。玉熊が中間距離からのピンポイント攻撃を得意とすることができたのは、良好な視力があってのこと。視力が減退したら、近場で勝負するしかないのである。 李戦における玉熊のインファイトは、初見参ではあったが、決して付け焼刃ではなかった。十分に練習を重ね、身に付けた戦法になっていた。しかしボクサー玉熊にとって、これはあくまでも次善の策。長期政権を築く戦い方ではなかった。ロハス(ベネズエラ)と引き分けて初防衛は果たすが、2度目の防衛戦で、左目が見えないために、アルバレス(コロンビア)の右を浴び続けて完敗。この末路にボクサーの職業病の悲哀を感じる。
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