夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
白井義男氏
国民的英雄にして清潔な紳士
当コラムの連載はロイヤル小林さんから、弟弟子のセレス小林さんへと継がれて行く予定だったが、昨年暮れに日本の初代世界チャンピオン白井義男さんが亡くなったので、追悼の意を込めて取り上げたい。 白井さんは競泳の古橋広之進と並んで、第2次世界大戦に敗れて打ちひしがれていた日本国民に、勇気と希望を与えたヒーローの双璧とされている。古橋さんはアメリカに乗り込んで世界新を連発。白井さんはアメリカ人のダド・マリノから世界タイトルを奪取。国民は溜飲を下げたというわけだ。 白井さんが世界チャンピオンになったのは昭和27(1952年)年5月のこと。後楽園スタジアム(現東京ドーム)に4万人の観衆を集めた1戦は、国民的関心事であったという。未だテレビが普及していなかった時代。国民はラジオの実況中継に耳を傾けた。 当時私は13歳。北海道の片田舎の中学1年生。ボクシングに無関心だったのでラジオ中継は聞いていない。古橋さんの大活躍ほどには印象にも残っていない。 白井さんの偉大さを知ったのは、ボクシング担当になってからだ。何事でも先鞭をつけるのは大変なことであるが、白井さんは国内初の世界タイトルマッチで、フライ級のベルト奪取という離れ業をやってのけたのだ。以後、ファイティング原田、海老原博幸、大場政夫といった名ボクサーが白井さんの後継者となり、日本は“フライ級王国”を自負した時代があった。 私がボクシング担当になった1968年ころがそうだった。70年に大場が東洋圏の国内王者をことごとく撃退した末に世界の頂点に立ち、王国のイメージをより強固にしたものだ。そのころ白井さんは日刊スポーツのコラム「クールアイ」を持ち、郡司信夫さんと組んでTBSのテレビ解説を受け持っていた。 当時は世界戦はもとより、日本タイトルマッチでも公開練習があった。評論家の方々も必ずといっていいほど顔を出す。白井さんは他社の評論家であったが、記事に味付けをするため、よく一言コメントを求めたものだ。 話し終えた白井さんが、とがめる風でもなく言ったことがある。「だれか飲んで来た人がいますね」。二日酔いで酒臭い息を吹きかけるのは、東京中日の佐藤武夫記者(現東京新聞)か私と相場は決まっていた。以来、二日酔いの時は、遠巻きに白井さんの話を聞いたものだ。 白井さんの一言には、羨ましさがこもっていたのかもしれない。デイリーに書いた追悼文にもあるように、白井さんはこよなく酒を愛した。ルーズなわれわれは二日酔いで仕事場に行く。几帳面な白井さんはそれができない。だから羨ましいという図式は、私が勝手に考えたもの。 2年前の読売新聞に右ストレートの模範を示す白井さんの写真が載っていた。78歳でかくしゃくとしたもの。長く病の床に伏すこともなく、比較的あっさりと旅立ったのは、人徳のなせる業かもしれない。
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