夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 関光徳会長


  畑山がスーパー・フェザー級とライト級の2階級制覇を成し遂げた陰に、横浜光ジム・関光徳会長の手腕は、当然あったはずだ。しかし関さんは、現役時代に築いた“哀しき敗北”の歴史が異彩を放つために、ジム会長としての存在感は、いささか軽い。言い方を変えれば、ボクサー関は世界チャンピオンにこそなれなかったが、偉大な足跡を選手活動の中に残しているのだ。
 悲運のボクサーと称される例が、日本のボクシング史にいくつか残されている。その中にあって、関さんのケースは、最たるものとして語り継がれている。
 華麗なテクニックと強打を併せ持つ関さんが、初めて世界挑戦したのは、フライ級時代の1961年6月。相手はファイティング原田や海老原博幸といった日本のボクサーを相手に、王座をやり取りすることになるポーン・キングピッチ(タイ)。
 関さんは惜しくも判定負けした。といっても、試合をこの目で見たわけではない。デイリースポーツに入社する前のことだった。この後も関さんはフェザー級にウエートを上げて4度の世界挑戦をするが、いずれも善戦空しく敗れている。
 その相手は殺人パンチャーのシュガー・ラモス(キューバ)、ビセンテ・サルジバル(メキシコ)に2度、そしてハワード・ウインストン(イギリス)である。いずれも敵地挑戦だった。サルジバルとの2度目の対戦は、史上初めて衛生中継されたので、古いファンは目に焼き付けているはずだ。
 これら世界の一流ボクサーと渡り合って、世界王座を奪うことはできなかったが、恥ずべき敗戦は1度たりとしていない。日本スポーツ出版発行の「日本名ボクサー華の100人」で関さんの小評伝を担当した作家の寺内大吉氏は「関光徳は、やはり一代の名ボクサーであった」と総括している。
 現役を退いた関さんは、所属した新和ジムの名前を冠した新和セキジムを東京・大井町に開設。金平正紀協栄ジム会長(故人)の信望厚く、協会の要職に就いたこともある。
 われわれが接していて、過激なファイトをやったとはとても思えない、温厚な人柄である。乞われて横浜光ジムの会長となり、スーパー・フェザーとライト級2階級制覇の畑山隆則とミニマム級新井田豊の2世界チャンピオンを育てるが、その過程で“やり手”という印象は受けなかった。
 自らの現役時代に、勝利の女神に弄(もてあそば)れた分、会長になってから、微笑みを受けて採算が取れたのかもしれない。
 新井田が世界タイトルを保持したまま引退という快(愚?)挙を歴史に残した際、なんでだろう?の矢面に立った関会長は、つらい思いをしたに違いない。
 人がいい故に、義絶までには至らなかった。そして今、思い直してカムバックした新井田がいる。わがままを許した関会長に、死力を振り絞ってもう1度、世界のベルトを奉るのが、人間新井田の使命だと思う。

 

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