夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
竹原 慎二さん
奇跡を起こした師弟
協栄ジム会長の座を実子・桂一郎氏が引き継ぐまでの間に、このジムから巣立った何人かのボクサーが、分家独立してジムを持っている。同ジムが生んだ7人の日本人世界チャンピオンも例外ではなく、他界した海老原博幸と現役の佐藤修は別にして、残る5人はなんらかの形でボクシングに携わっている。 分家したジムで唯一世界チャンピオンを輩出したのが、宮下政氏が会長の沖ジムである。チャンピオンはいうまでもなくミドル級の竹原慎二。2人はともに広島県の出身。広島でジムを営む竹原の父・三郎さんが、中学を出たばかりで、手のつけられない悪童だった竹原を、宮下会長に預けたのだ。 先輩記者によると、現役時代の宮下氏は将来性豊なハードパンチャーだったらしい。ロサンゼルス遠征なども経験している。ボクサーの頓挫にありがちな眼疾で、ボクシングをあきらめるしかなかったという。竹原を預かった時点で、協栄ジムから独立していたが、道場はそのまま借りていた。 内装中堅会社のバックアップを受けて、板橋区に今のデラックスなジムを構えてから、師弟は世界取りへまい進するのだが、必ずしも固い絆で結ばれていたわけではない。悪童の面影を残す竹原が、会長に反発して家出ならぬジム出をしたこともあるという。 しかし竹原は煮ても焼いても食えないへそ曲がりでは決してない。妥協点を見出してジムに戻ると、連戦連勝で日本、東洋太平洋王座を制圧しながら世界へ突き進んだ。といっても、実際に竹原が日本人ボクサー前人未踏のミドル級世界王座をものにすると信じたファンや関係者が、どれほどいたであろうか。 ミドル級の世界王座など、日本のボクサーには高嶺の花だというのが、ボクシングを知る者の通念だった。ホルヘ・カストロ(アルゼンチン)への挑戦が決まり、これに備えてのキャンプをスポーツ紙が合同で取材したことがある。 重圧どこ吹く風で、一番平然としていたのが当の竹原だった。取材が終って私と将棋を指した。弱い私に勝ったのは当然としても、将棋を指す余裕があることに敬服したものである。この男はひょっとしたら…。 まさに驚天動地の世界タイトル奪取をやってのけたのである。世界王座奪取はクラスを問わず歴史に残るが、日本人が手の届かなかったミドル級は別格の重みがある。スポーツ各紙がこぞって一面で快挙を伝えたのは当然だ。 私が担当していたデイリーとほかに1紙だけが中面報道だった。獲得翌日の記者会見で「デイリーさんと○○さんだけ一面でなかったですね」と新王者が笑いながら苦言を呈した。勝った場合に備えての仕込みをしておかなかったのが、一面にいけなかった理由だ。怠慢を悔いたものだ。一方、直感で竹原の勝ちに賭け、2人の相手から豪華なディナーをせしめたのは会心だった。
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