夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 金平桂一郎 協栄ジム会長

 偉大な父を継ぐヒューマニスト


 協栄ジムが生んだ世界チャンピオンは、鬼塚勝也の後、勇利アルバチャコフ、オズルベック・ナザロフ、佐藤修と続くが、ロシア人の2ボクサーとは個人的な話し合いをしたことがない。彼らは日本語を話さないし、私はロシア語を理解できないのだから当然だ。公式行事における取材が唯一の接点だった。
 その際に通訳をしてくれたのが金平正紀会長の実子である桂一郎現会長である。今回はこの2代目やり手会長のことを書くことにした。
 桂一郎会長のロシア語は、ロシアに留学して学んだ本物だ。桂一郎会長がロシアに派遣されたのは、金平前会長の世界戦略の一環だった。金平氏は有望なボクサーを外国から輸入する戦略を立て、実子の桂一郎氏をロシアに、甥のマック金平氏をメキシコに、それぞれ語学留学に出したのだった。
 中軽量級王国メキシコからの輸入が先だった。東京三太ことミグエル・ゴンザレス、協栄トーレスあるいは大関トーレスを名乗ったヘルマン・トーレスを獲得して日本で売り出した。マスコミとの間に立って活躍したのが流暢にスペイン語を操るマック金平氏だった。この2人がいずれも協栄ジムを去って、母国に戻ってから世界チャンピオンになったのは、先見の明がある金平会長にしては計算違いだった。
 しかしこの失敗は、成功のもとだった。ソ連邦が崩壊してスポーツ選手の自由世界への流出が始まると、金平会長はいち早くアマで鳴らしたロシア人ボクサーを獲得して養成。勇利とナザロフが世界チャンピオンになる過程で、父をサポートする桂一郎氏の存在は百人力だった。
 父が無くなった後、DNAとジムを継いだ桂一郎氏は、なかなかのやり手ぶりを発揮している。父の遺産でもある佐藤修を世界チャンピオンにするに際しては、ターゲットの切り替えで鋭い勝負勘を働かせた。ジムの運営で採算を取る手法も、グッズ販売を当てるなどして、父に勝るとも劣らない。
 ヒューマニストとしては、間違いなく父超えをしていると思う。勇利に挑戦して負けた後の渡久地隆人を、トレードで獲得したのは先代だった。その渡久地の2度目の世界挑戦を発表した2日後に、キャンセルを発表するというドタバタがあった。念のため受けた検診で渡久地に脳梗塞の症状が見られたためだ。 KANEHIRA KEIICHIROU.JPG - 16,281BYTES
 渡久地を残して前会長は他界。世界戦はともかく、渡久地はどこまでも現役続行を主張した。本人の体を気遣って桂一郎会長は引退を説得し続けたが、根負けして1試合だけは認めた。渡久地が試合をやれば、ジムは確実にもうかるのだが、会長はあきらめさせることに力を注いだ。
 もうけよりボクサーの身体を気遣うヒューマニズムが、日本プロボクシング協会の執行部に認められて、会長は協会の健康管理委員長の職責を任されている。最近、桂一郎会長と話す機会があった時に訊かれた。「芦沢さん、私が子供のころ、家に遊びに来たのを覚えていますか」。覚えているとも。あの坊やが立派な大人に成人したものだ。

 

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