夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 鬼塚 勝也さん

 マスコミへの決別宣言


 協栄ジムから6人目の世界チャンピオンになった鬼塚勝也は、ジュニア・バンタム級(現スーパー・フライ級)タイトルを5度防衛して、大チャンピオンの列に加わっている。それは確かなのだが、私の心の中では、悲劇のヒーローとしての存在意識が強い。
 タイトル防衛が進行する中で右目網膜剥離を患い、それが原因で王座転落→引退へと至った現役のフィナーレが、何よりもその思いを強くしている。その他にも悲劇の要素はあった。
 君子豹変す。環境が人を変える。地位が人を変える。いろいろな言い草があるが、鬼塚はわれわれマスコミの前で、明かに人が変わった。変わらざるを得なかったのかもしれない。人は運命に左右されるものであることを痛感する。
 いずれも高校時代のアマボクで名を馳せた鬼塚、川島郭志、渡久地隆人がそろってプロ入りしたのが1988年春だった。その年の東日本新人王トーナメントで、各人が際立った勝ち方をして行くうちに、トリオは“平成の3羽ガラス”のキャッチフレーズを付けられた。
 その年のハイライトは渡久地−川島のフライ級決勝であるが、それはさておき、鬼塚はファンとマスコミの熱い視線に気後れすることなく、ジュニア・バンタム級で優勝を遂げ、勢いを駆って全日本も制した。
 鬼塚の全日本新人王獲得第1戦は国内の選手だったが、以後3試合は韓国の選手との連戦になる。われわれの常識では、韓国の選手はタフで倒れないものとなっている。鬼塚ははその3連戦を、ことごとく前半KOで片付けた。
 その裏には敏腕金平正紀会長の慎重な相手選びがあったと思う。つまり鬼塚が絶対に負ける心配のない相手の選択だ。その類の会長の政策を知らず、勝って野放図に喜ぶ選手は珍しくない。
 クレバーな鬼塚は、勝った後の控え室で浮かぬ顔で話したものである。「勝っただけでは喜べません。もっと強い選手と戦って、自分の力を試したい」。単なる1勝に浮かれている場合でないことを、よく知っていたのである。鬼塚と違って、この段階で世界へのステップを踏み間違える選手のなんと
多いことか。
 このころの鬼塚はマスコミに対してオープンに接する朗らかなボクサーだった。それがすっかりネクラになったのは、皮肉にも世界タイトルを取った試合がきっかけだったと認識している。
 92年4月。タノムサク(タイ)との王座決定戦に勝ってつかんだWBAの王座。真摯なファイトには訴えるものがあったが、勝負に関しては分がなかったというのが、私だけでなくマスコミ一般の見方だった。公式採点と分れたわけだ。
 試合翌日の勝利者会見。金平会長がマスコミの論調に非を鳴らす横で、当の鬼塚が「いろいろな見方があるのは仕方ないことです」と、悔しい思いを呑み込んで、腹にしまった姿は立派だった。しかし、思えばそれが、マスコミへの決別宣言であり“カリスマ・チャンプ”へと走って行ったきっかけだったような気もする。

 

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