人がよすぎて出世が遅れた元祖・沖縄の星
パンチドランカーならぬ、アルコールドランカーの症状が出てしまった。ただ今、協栄ジムが生んだ世界チャンピオンの想い出を順次綴っている。海老原博幸、西城正三、具志堅用高と来て、次は上原康恒のところ、渡嘉敷勝男に飛んでしまったのだ。 森の石松のように「だれか忘れちゃいませんか」と換気を促すような上原さんではない。知らない人が接したら、これが元ボクサーかと目を疑うほど、物腰がジェントルマンなのだ。試合においてもそうだった。 具志堅は倒れた相手になお殴りかかるほど猛々しかった。これに対して上原は、極端な話、相手がバランスを崩したら、体勢を立て直すまで待ってから攻撃するといった人のよさがあった。やがては勝負に徹するようになるが、悟りを開くまでの間に、世界王座は後からプロ入りして来た具志堅に、先を越されたのだった。 沖縄が本土に復帰する前、弟の晴治とともに日大に進学した上原は、ボクシング部で大活躍して“沖縄の星”と並び称された。今、改めてワールド・ボクシング発行のボクシング手帳を広げてみる。昭和45(1970)年のアマ全日本選手権。晴治はフェザー級、康恒はライト・ウェルター級で優勝者に名前を連ねている。康恒は翌71年はライト級で優勝。 この兄弟は性格が反対だった。兄がおっとりしているのに対して、弟は怖い金平正紀会長にずけずけとものを言うなど、攻撃的だった。これをボクシングの戦いそのものに当てはめると「晴治の方が向いている」(金平会長)という見方になる。 ボクサー人生というもう少し広い視野に立つと、これがいささか違ってくる。晴治の性格が「泣かぬなら、殺してしまえ」なら康恒のそれは「泣かぬなら、泣くまで待とう」であり、最後は家康流の康恒が世界チャンピオンになってボクシング史に名前を残すのである。リングネームをフリッパー上原と称した晴治は77年5月、地元沖縄での世界挑戦に失敗すると、潔く引退してしまった。 康恒は辛抱を重ねたボクシング人生だったといえる。最初の世界挑戦は74年8月。ハワイでベン・ビラフロアに挑んだ。うれしかったのは、取材のため初めてハワイの地を踏むことができたことだ。試合は2ラウンドKO負けで、得るものはなかった。せいぜい観光を満喫させてもらった。ハワイの名物トレーナー、スタンレー伊藤さんの自宅に招かれ、歓待を受けた思い出が、今も頭に残る。 それから6年後、康恒はデトロイトで世界タイトル奪取の快挙をやってのけた。正直いって期待薄だった。取材に出向いた記者はいなかったと思う。空港に出迎えたわれわれの前に、康恒は奢ることも昂ぶることもなく、いつものように紳士然と現れた。 引退後、軽井沢でテニスクラブを経営する好漢上原さんは、このほどジャパンスポーツクラブの顧問にも付いたという。ボクシング界に帰って来るのは大歓迎だ。
コラム一覧 バックナンバー
(C) Copyright2003 ワールドボクシング編集部. All rights reserved.