夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
朝熊、安成記者
二人の大いなる先達、ともに逝く
協栄ジムが生んだ世界チャンピオンを取り上げ中の当コラムであるが、1回だけ脇道にそれて、最近亡くなったデイリースポーツの元ボクシング担当記者、朝熊紳一郎さんと安成芳史さんの追想を記したい。海老原博幸の項で名前の出た朝熊さんは10月6日、安成さんは8月24日にいずれも病魔に勝てず、あの世に旅立った。ともに70歳前後の“早逝”だった。 入社して整理部に配属された私は、毎夜のようにチンチロというサイコロ博打に興じていた。1升ビンを横に置いて、熱くなった挙句にケンカは付きもの。ある時、その場で収拾できなくなり、ケンカ相手がタクシーで朝熊さんの居室に私を連れて行った。生意気な態度をたしなめてもらうためだ。 朝熊さんの前で口論再開。ちょっとだけ聞いて、朝熊さんは判定を下した。「実にくだらん。酒でも飲んで仲直りしろ」。はしなくもサカズキをもらうことになった。後に朝熊さんの推薦で取材部門に転出、挙句はその下でコンビを組むことになる。 仕事は厳しく仕込まれたが、どこかに甘えがあったことは間違いない。世界タイトルマッチの当日、迎え酒で真昼間からぐでんぐでんになった状態で出社したことがある。一喝された後、強引に医務室に連行され、ベッドにほうり込まれた。 朝熊さんは「クマさん」あるいは「キャップ」と呼ばれ、ライバル紙の記者から、仕事で警戒され、酒席では親しまれていた。調査取材不足から、私が書いた記事であるジムの会長を傷付けてしまったことがある。名誉毀損と損害賠償の訴訟も辞さないほどの怒りようだった。 会長をなだめるには、ライバル記者の助力も要ると考えたキャップは、連日連夜、酒席で対策ミーティングを開いた。費用はキャップ持ちであるから、随分家計を圧迫したのではないかと思う。今、残された奥さんにすまない気持ちでいっぱいだ。朝熊さんのことは1冊の本にしても書き切れないと思う。 私の前に朝熊さんとコンビを組んでいた安成さんは、実にクレバーな人だった。巨人軍の王、長嶋が猛威を振るっていたころ、安成さんは整理部にいた。「ON」という見出しを最初に使ったのは安成さんだと言われている。 短期間の担当であったが、朝熊さんとのコンビで歴史的な特種をものにしている。ボクシングが初めて衛星中継されたのは、フェザー級関光徳(新和)がメキシコで世界王者ビセンテ・サルジバルに挑んだ1戦である。フジテレビで事前にこの情報をキャッチしたのが朝熊さん。しかし衛星中継のシステムを説明するのが難しい。安成さんが図解して分り易く読者に伝えたのだった。 安成さんはアルコール類をほとんど口にしなかった。去年、自宅の近くで会社のOBが数人集まってお茶会をやるからと、誘いを受けた。アルコール抜きでは気勢が上がらないので欠席したが、今にして悔やまれる。
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