夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
金平正紀会長
”金平マジック”と書いてジム出入り禁止に
金平さんは育てた選手だけでなく、よくも悪くも、自身がビッグニュースになる大物だった。スキャンダルの最たるものが、1971年暮れに渡嘉敷勝男が世界タイトルを獲得したのと時機を同じくして噴出した“オレンジ事件”である。世界タイトルマッチで対戦する相手陣営に、劇物入りのオレンジを贈ったというもので、週刊文春が数回に分けて衝撃のレポートを掲載した。
あれほど足繁く協栄プロモーションに通っていたにもかかわらず、そんな画策の気配をわれわれは微塵も感じ取ることができなかった。スポーツ紙が週刊誌に完敗した次第だ。
われわれに代変わりするまで、ボクシング界には敏腕ライターがそろっていた。先輩たちに「今の記者は全く情けないやつらだ」と言われても返す言葉はなかっただろう。しかし夕刊紙に「スポーツ紙のボクシング担当記者は、金平会長と癒着しており、事実を知りながら記事にしなかった」旨の中傷を受けた時には、文字通り心が傷ついた。
前にも書いたが、記事をでっち上げた前科が私にもないわけではない。ファンに夢を与えるような話を金平さんに持ちかけ、ゴーサインが出たら記事にするという、ニュースを装ったストーリーのことだ。他愛のない記事と違って、中傷された場合の痛みを思わぬことで実感した。
“オレンジ事件”は文春任せで済む問題ではなかった。金平さんの周囲にいた人の話など裏付け取材をして記事にした。金平さんの形勢が悪くなるにつれ、記者との関係もぎくしゃくした上、この問題の結末として金平さんはいったんボクシング界から追放されたので、マスコミとの中も疎遠になった。
追放されたからといって、生ける屍になるような金平さんではない。協会の公務には携わることができなかったが、ジムの運営に関しては、スタッフの1人を名目上の会長に据え、自らは“闇将軍”として全面的に采配を振るっていた。とはいえ、復権するまでの7年間、協栄ジムから世界チャンピオンは出ていない。
鬼塚勝也を世界チャンピオンにしたのは、復帰した金平さんの公然たる仕事だった。鬼塚は常に全力ファイトをする悲壮美で、ファンに訴えるものがあった。しかし勝った試合の中に、解せない判定が1、2あった。これは選手には罪はない。選手が審判団に圧力をかけたり晦渋したりすることは不可能なのだから。
マネジャーはちょっと違う。遠来のレフェリー、ジャッジにディナーをふるまうのは当たり前といわれる。場合によっては、それ以上の接待があるかもしれない。解せない判定の因を私は“金平マジック”と書いた。
やり手の評判高い金平さんの威光に、審判団がなびいたとしたら、これもマジックのうちだ。自らの前歴に照らして悪意に解釈した金平さんは、私をジムへの出入り禁止にした。解禁されるのに3年ぐらいかかったのではないだろうか。先輩記者に交じって列席した故海老原博幸氏の法要の席。上方から順次握手してきた金平さんは、惰性もあってか、そのまま私にも手を差し出した。あの世から海老原氏が取り持ってくれた和解だった。
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