夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
小高伊和夫会長
意外に面倒見のいい“偽悪者”
河原木宗勝さんのボスにあたる極東ジムの小高伊和夫会長(故人)は、非常に気難しい人だった。河原木さんは小高会長の最期まで、よくぞ離反せずについていったものだ。河原木さんの我慢強さが、小高さんの癇癪(かんしゃく)を、上回ったということかもしれない。
小高会長の功績は、なんといってもTBSテレビとタイアップして「ボクシング教室」を開き、その中から世界ジュニア・ライト級チャンピオン沼田義明を育てたことだろう。教室の応募者は全国で8千人を超えたという。その中から沼田のほかに東洋ジュニア・フェザー級チャンピオン石山六郎と日本ジュニア・ウェルター級チャンピオン森洋が出ている。教室は大成功だったのだ。
小高会長が沼田をコーチしている現場を取材した時のこと。先輩記者から小高会長は、足の置き所1センチまで細かく指導すると聞いていた。その点は沼田が“卒業”していたのか、私が目撃したのは連打攻撃だった。ワンツースリーどころではない。一気に12連打する練習をしていたのだった。「沼田、脅威の12連打習得中」と記事にしたのを、今でも覚えている。
このように、ボクシングの実践面でいろいろと面白い取材をさせてもらったが、実は業界人としての小高さんの方が、より思い出深い。業界が激動して抗争が勃発した時期、小高さんは一方の旗頭として陣頭指揮を執ったのである。その相手は故金平正紀氏(協栄ジム会長)だった。
昭和47(1972)年5月、全日本ボクシング協会(今の日本プロボクシング協会)は、キックボクシングとの併用興行を主張する金平氏を除名処分にした。
これに対して金平氏は全く同じ名称の全日本ボクシング協会を別に設立。業界は同じ名前の2団体に分割されて対立構図を描いたのだ。
岩淵義夫氏(東拳ジム会長)を会長とする一方の団体は、実質的に小高さんが牛耳り、名子興一氏(キングジム会長)が会長となった新団体は、金平氏が意のままに動かしていた。新人王戦以外の興行では、2団体の交流がほとんどないという冷戦状態だった。
両団体の事務所はともに後楽園周辺にあった。私はどちらかに片寄らないように留意しつつ、均等に事務所に足を向けるようにしていた。金平さんが表面上紳士であるのに対して、小高さんは“偽悪者”を装って口が悪かった。「金平のスパイ。来なくていいのに」。事務所を訪れた私に、平然とこんな言葉を投げつけるのだった。
だが、「金平のスパイよ、飯でも食おうか」と言いつつ、よく事務所の近くのトンカツ店に連れて行ってくれた。口が悪い割に根は面倒見のいい人だと認識していた。協会の融和を見ることなく、あの世に旅立ったことが惜しまれる。
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