夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
渡辺均会長
紳士的な抗議に拍子抜け?
テレビ朝日の窓口だった河原木宗勝マッチメーカーから、放送枠を斡旋されていた人が、米倉健司会長のほかにもう1人いる。ワタナベジムの渡辺均会長だ。この人は旧国鉄(現JR)の職員時代に、勤務先の栃木県にジムを開いた変わり種。
国鉄を辞めて、東京の五反田にジムを移したのは20年以上前のこと。当初のジムはリング以外のスペースが狭く、選手たちはひしめき合ってロープを跳んでいたものである。
こんな小さなジムながら、駅に近いというメリットから、練習生はやたら多かった。登録数は100人以上。うまくしたもので、日によって来る者、来ない者が按配されていたので、不都合はなかったが、全員が1日に集中したら、とても収容できるものではない。
数年前にジムは同じ五反田駅近くの大きなビルに移転、そこの2フロアを借り切って、練習生の数も300人を超えているという。全国のジムの中で、数の多さで国際ジムの500人に次ぐのではあるまいか。
数が多ければ、その中に逸材が含まれている可能性も高くなる。元の手狭なジムから、世界挑戦を実現する2人の選手が育った。ストロー級平野公夫とウェルター級吉野弘幸だ。渡辺会長はこれらの選手を直に育てたというより、トレーナー陣に任せて、自らはビジネスに重きを置いていたようだ。
平野が挑戦した相手は、大橋秀行(ヨネクラ)を痛烈KOしてタイトルを奪って行ったあのリカルド・ロペス(メキシコ)だった。91年5月のこと。後にロペスは全階級を通じて史上2番目の22度防衛を果たす。平野の挑戦を受けた時点でその萌芽はあり、この試合はミスマッチではないかと思われた。
ひとたまりもあるまいと思われた平野が、8ラウンドまで持ったのは予想外だった。この試合に関しては、心の中でミスマッチと思いながら、新聞紙上には書かなかったのかもしれない。渡辺会長と何のトラブルも起きなかった。
トラブルになったのは、吉野が1階級下げてジュニア・ウェルター級ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)に挑戦した時だ。米倉会長と口論した時と同じように、テストなしで異階級に挑戦するのはおかしいと書いた。
渡辺会長に後楽園のレストランに呼び出しを食った。WBAが承認した試合にクレームをつけるのは筋違いではないか−。穏やかな口調での抗議だった。
WBAが必ずしもボクシング界の良識ではない。こちらも穏やかに反論した。
その場は物別れに終ったが、渡辺会長の紳士的な態度には拍子抜けしたぐらいだ。その後の長い付き合いで改めて認識した。渡辺会長は怒りの感情を絶対に表面に出さないことを。一時、プロモーター会議の議長を務めていたことがあるが、そんな人徳が買われたのかもしれない。
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