夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』

 全日本パブリックジム・田中敏朗会長

 
引退後も「無冠のチャンピオン」


 ボクシング界には埼玉中央ジムの田中冨士夫会長と同姓の田中敏朗・全日本パブリックジム会長がいる。敏朗会長は人と妥協せず、わが道を行くタイプであるが、どういうわけか冨士夫会長とウマが合うようで、私を交えて酒席を共にしたことが何度もある。
 冨士夫会長は多弁な調子者、敏朗会長はあまり弁の立たない実力主義者であるが、お2人はどういうわけか気が合って、数ある酒席でケンカしている図を見たことがない。
 そんなの当たり前と思うのが普通の人であろうが、あえて私が特筆するのは、酔った時の敏朗会長が半端でないからだ。もっとも酒席が平穏無事に済むのは、冨士夫会長の弁には毒がなく、人を和ませる独特の人柄に生まれついているからかもしれない。
 敏朗会長との長い付き合いの中で、ボソボソと語る過去を聞いたところ、少年時代から相当なワルであったらしい。今は過去の遺物になった三池炭坑が華やかなりしころの、福岡で育った。炭坑夫は気が荒い。1本刀を背中に負って、裸馬で街中を走り回った豪の者もいると伝えられる。
 そんな環境で育った敏朗会長は、生来の気の荒さに触発されて、三池高時代は手の付けられない悪ガキだったらしい。ケンカ三昧の学校生活で、退学にならなかった理由は分からないが、周囲の環境が按配されたのではなかろうか。
 三池高を出た敏朗会長は、ボクシングの強豪だった明大へ進学する。後輩に米倉健司、川上林成といった優れたボクサーを持ち、プロに入った後も、この2人に対する風上の立場を譲らない。
 敏朗会長がプロで所属したのは、今はなき興伸ジム。同じジムに勧誘してプロ入りした米倉氏を、敏朗会長は自分のアパートに住まわせた。
 共にフライ級であったが、米倉氏が頭角を現すにつれて、敏朗さんは目の上のタンコブになった。そこでバンタム級に転向して、後輩の米倉さんに、日本チャンピオンへの道を譲ったというエピソードが残された。
 こんな人情家の敏朗さんが、ひとつ間違うと強暴なケンカ屋になる。元ボクサーは暴力を厳く戒められているが、相手が元ボクサーが大半である日本プロボクシング協会の総会とあってはいささか話が違う。他言無用の密室世界。
TANAKA TOSHIROU.JPG - 5,789BYTES 聞くところによると、そんなところで敏朗会長は、暴力を振るっていたというのだ。米倉氏に席を譲ったために、日本チャンピオンにはなれなかったが、敏朗氏の現役時代の実力は、高く評価されている。それが傍若無人の生き方を容認しているのかもしれない。
 数年前のこと、ワールド・ボクシングの前田編集長を立会に、敏朗さんとぐでんぐでんになるまで飲んだことがある。酔った勢いに任せ、言いたい放題の毒舌を浴びせたらしい。
 翌日、前田さんから「殴られなかったのがせめてもの救い。あまりにも失礼だった。謝りの電話を入れなさい」と忠告があった。で、すぐに電話した。
「えっ、何のこと」。こちらも何が失礼だったか分らない。お粗末な一席でした。

 

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