夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
田中冨士夫・埼玉中央ジム会長
飲んで女子ボクサーとダンス 会長の「不謹慎の勧め」いまも・・・
考えてみれば、酒付き合いが悪くなった相手は、佐々木孝雄氏だけではない。デイリースポーツを定年退職して4年、ジム回りをほとんどしなくなったので、すべての会長さんと酒席から遠ざかっている。そんな折、埼玉中央ジムの田中冨士夫会長と、久々に杯をかわした。 去る7月6日、蕨駅西口の交通至便な場所にジムを移転した田中会長は、町内会の人を道場に集めて、新装オープン祝賀会を催した。業者、マスコミには声をかけず、内輪で開いたパーティだったが、上尾に住んでいる私には電話で召集がかかった。蕨と上尾は比較的近い距離にあり、昔から近隣のよしみを通じていたのだ。 埼玉中央ジムは同じ町内で、これが2度目の引越しだ。その都度駅に近づいており、今回は駅から歩いて20秒というのが、田中会長の自慢である。リキジムのトレーナーから独立して、田中会長が蕨市役所の近くに、プレハブのジムを建てたのは、昭和43(1968)年のことだという。 およそ20年後、道場の床が傷んで、一部が今にも抜け落ちそうな時期に、私はよく埼玉中央ジムに通った。くすんだ外形とは対照的に、ジムには華やいだ話題があったからだ。高槻正子という女性ボクサーが、男子も顔負けの技量を備えて売り出してきたのだ。 今は女子ボクサーが珍しくないが、当時は高築さん1人しかいなかった。だから身分はトレーナー。試合相手がいないので、興行の合間に男子ボクサー相手のスパーリングで、腕前のほどを披瀝した。 これが結構受けて、高築女史はプロモーターから重宝がられ、出場機会に恵まれた。スポーツ紙やテレビでも騒がれて、時の人になったものである。高築さんはプロだから、ファイトマネーに相当するギャラは受け取る。マネジャーの田中会長も金回りがよくなり、道場の床の改修工事ができたという。 当時、取材に行くと「練習が終るまでちょっと待ってろよ」と、決まって足止めされたものである。目的は言うまでもなく、会長の行きつけの店で一杯やるためだ。 ある時、高槻さんを引き連れてスナックに繰り出し、会長にけしかけられて、ダンスしたことがある。酔っ払っていたとはいえ、取材対象相手に不謹慎な行いは、翌日酔いが醒めて赤面の至りだった。 今、高築さんはどこでどんな生活をしているのか。田中会長も消息は知らないという。この人は日本チャンピオンを1人もつくっていないので、会長として影が薄かった。束の間ではあったが、高槻さんとともに脚光を浴びたのは、いい思い出になっているという。 この度は67歳にしてのジム移転オープンだった。「やり残しているチャンピオンづくりを、今から目指すんだよ。ジムに冷蔵庫入れて、ビール冷やしておくから、様子見に来てれよ」と田中会長。またまた不謹慎を勧める気だ 。
|