夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』

 佐々木隆雄 元シントージム会長


 斎藤寛・国分寺サイトージム会長に負けず劣らず頑固で偏屈な男。それは元トクホン真闘ジムの会長で、今はトレーナーに身を引いている佐々木隆雄氏である。この人も斎藤会長同様、木村七郎グループから離反した1人である。
 木村氏が全日本ボクシング協会(現日本プロボクシング協会)の会長だった時、佐々木氏はその右腕となって、さまざまな改革に携わった。いわば木村協会長の行動隊長みたいなものだった。
 佐々木さんが木村氏から離反したのは、木村氏が協会長の座を原田政彦氏に譲った後である。原因は佐々木氏が、ビジネス上のことで木村氏に不満を抱いたことにあるらしい。 佐々木氏はまた、協会の原田執行部にも不満を持ち、これにかかわる勇み足的言動がとがめられ、ジムの会長から降りることを余儀なくされた。今なお復権しておらず、ジムの名目上の会長は、佐々木氏のオジにあたる大友朝之助氏になっている。
 今も続く原田体勢にあって、佐々木氏が復権の動きをしないのは、いかにも意地っ張りのこの人らしい。ジムのビジネスは須田芳黄マネジャーが取り仕切っているので、不都合はないが、佐々木氏はトレーナーの身分で業界に生きることに、いくばくかの寂しさはあるだろう。
 この人の意地っ張りには、私も泣かされたことがある。バンタム級磯上秀一は佐々木氏のスパルタ教育に耐え抜いて、一定のレベルに達した努力家であった。磯上が東日本新人王になった時、デイリースポーツはこれを1面で報じた。
 売り出しにひと役買ったこともあり、磯上には密かに肩入れしていたものだ。順調にステップアップした磯上は80年4月、WBAバンタム級王者ホルヘ・ルハン(パナマ)に挑戦する。
 その前哨戦で磯上はミソをつけた。負けたも同然の拙戦をやってしまったのだ。ルハンに挑戦する既定路線を守るために、ジャッジが磯上に情けをかけたのではないか。審判員による八百長まがいの試合だ、と私は厳しく書いたものだ。
   SHINTO-GYM.JPG - 14,827BYTES
 これが佐々木会長の逆鱗に触れた。潔癖感の強いこの人に“八百長”は我慢のできない3文字だったようだ。私のみならず、編集局も抗議の対象にされ、乗り込んで来た後援者が「八百長とはなんだ。世界タイトルマッチを前に、磯上のイメージダウンをどうしてくれる」と局長に詰め寄った。
 局長がとりなして、私が書き過ぎを認めることでその場は収まったが、佐々木氏はその後も引き下がらず、こちらは辟易としたものだった。間に立ってくれる人がいて、最後は手打ち式になるが、発端から1カ月近く経っていたと思う。
 手打ち式以来、2人は飲み友達になってしまった。ジムに取材に行くと、クローズするまで待たされ、尾久の飲み屋で心行くまで飲んだものだ。終電がなくなり、住居兼用のジムに泊めてもらったこと数知れない。
 ジムの会長を降りてからの佐々木さんは、ごく一部の人にしか相手にされず、ほぼ孤立状態になっている。こんな時こそ親身に付き合うのが、ましな人間なのだろうが、私もジムから足が遠のいている。会場で顔を合わせると「あしさん、たまには遊びに来てよ」と佐々木さん。いささか胸が痛む。

 

  コラム一覧 バックナンバー



(C) Copyright2003 ワールドボクシング編集部. All rights reserved.