夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 小坂克巳会長

 不器用なボクサーが努力ひとつで世界王者養成

 故池田伸夫会長が設立した埼玉池田ジムは、埼玉県鴻巣市にある。県内のほど近い所にあるのが熊谷ジムだ。池田会長は埼玉県アマチュア・ボクシング連盟に顔が利くこともあって、隣人の熊谷ジム・小坂克己会長に、定例の意義ある大会を斡旋した。アマチュア・ボクサーによるスパーリング大会だ。
 小坂会長は98年に病死するが、子息の裕己さんが会長職とスパーリング大会を引き継いで、亡くなった両会長の、ボクサー養成への思い入れは、脈々と今も生きている。
 小坂会長は元日本ライト級チャンピオン。記録を紐解くと、タイトルを取ったのは昭和31年(1956年)11月のことである。現役時代の小坂会長を知る古老に聞いたところによると、かなり不器用なボクサーだったらしい。
 それが日本チャンピオンに。成功への道程に“努力”の2文字があったことを、疑うことができない。努力一筋のモットーを弟子にたたき込んで、工藤政志(現常陸大宮ジム会長)を世界チャンピオンに育てた。
 ジムにおける工藤の練習は1、2度しか見ていないが、小坂会長の要求は苛烈だったという印象が残っている。その時点では、工藤が会長に対して、遺恨を抱いていたとしても不思議ではないと思うほどだ。
 そんな相克があったればこそ、発奮した工藤が世界チャンピオンになれたのではないだろうか。例を他に移しても、会長とボクサーが蜜月関係にあって、世界タイトルを奪取したケースはむしろ少ない。
 小坂会長は豪放磊落(らいらく)な人だった。同時に、節度をわきまえたお人よしでもあった。工藤が全日本新人王になった後、デイリースポーツは小坂会長の依頼で、彼の試合を後援した。その中で日本チャンピオンになり、やがて世界挑戦する時が来た。
 バックについたのはテレビ朝日。これに結び付くのは日刊スポーツだ。小坂会長は丁重にデイリースポーツ社に後援紙の変更を申し入れた。筋を通しての話なのでデイリーは、気持ちよく(泣く泣く)これを受け入れたのである。
 そして工藤は期待に応えて、輪島功一に次ぐ世界ジュニア・ミドル級タイトル奪取をやってのけた。後援移行の問題を乗り越えて、私は工藤と小坂会長を祝福した。その思いを察してくれた小坂会長との付き合いは極めて良好だった。
  
 工藤がチャンピオン在位中のこと。企業舎弟のある道路建設会社の社長から「おい、記者さんよ、熊谷の会長はせっかく世界チャンピオンをつくっても、周りの連中に搾取されて、全くいい思いをしていないじゃないか。それを追求するのがお前さんらの仕事ではないのか」と、ぐさりハートを刺されたことがある。周りの人というのが、これまた私とツーカーの仲。何も言えなかった。
 お金に淡白な小坂会長は、工藤ブランドで貯えをすることができず、彼の引退後、ジムを一時閉鎖した。復活して子息の裕己さんにジムを委ねてあの世に逝った。ビジネスに弱いことをおくびにも出さず、豪快に笑ってわれわれと対応してくれた小坂会長の笑顔は忘れられない。

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