夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
埼玉池田ジム
山田康広会長
真の武勇の持ち主だが、素振りも見せない
先日、私とおぼしき人物を、揶揄(やゆ)しながら綴る短文を、偶然目にした。デイリースポーツで私の後任ボクシング担当記者になった木村直樹が、記者クラブでパソコンを開いたまま、試合場に観戦に降りている間、待機画面を何度も繰り返して、ゆっくり流れていたのが以下の文字だった。
「1939年、平城生まれの北海道育ち。文学をこよなく愛す浪漫派。バブル期にアッシーの名で一世を風靡。別名泣きの清一。主食、ビール。特技、記憶喪失。趣味、見知らぬ町旅すること(無賃乗車の最長記録保持者)。持ち歌、知床旅情、軍歌ほか。戦績、生涯負け無し(武勇伝多数)。
武勇伝多数は完全なるガセ。36計逃げるに如かずをモットーにしているぐらいなのだから。武勇伝を数々持ちながら、そんな素振りがつゆ見えないのが、このほど埼玉池田ジムを引き継いだ山田康広会長だ。
新潟市に住んでいる山田さんは、故池田伸夫会長の番頭役として、鴻巣市にある埼玉池
田ジムとの間を、車でひんぱんに行き来していた。山田さんは言動にメリハリがあり、かつ紳士的な男性である。
「あれで若いころ、大宮界隈の不良を抑えていたんだからなあ」と耳打してくれたのが池田さんだった。「俺が死んだらこのジムは山田に任せる」と生前から言っていた。それが実現したのは池田さんが亡くなってから6年目。
ここまで名目上の会長は、池田さんが遺したフィリピン人女性の未亡人だった。池田さんと一緒に何度も食事をしたことがある。美人だった。若いだけに池田さんに取り残されることは、分かり切っていた。現実が訪れた時、新たな人生での幸せを願わずにおられなかった。
池田さんの後釜として、会長に居残ったのには、金銭的な打算もあったのだろうが、ボクシングに素人の人が役目を果たせるわけもなく、私は心を痛めていた。山田さんへのバトンタッチが済んで、未亡人はある種、安堵感を抱いているのではないだろうか。
さて、これまでは側面から埼玉池田ジムを支えてきた山田さんが、これからは前面に立ってジムを統率していくわけであるが、この人の選手育成面での特異な理論は、注目に価する。
山田さんは自分の過去の経験から割り出した理論なのかもしれないが、極めて実戦的なトレーニングに重きを置いている。「サンドバック打ちなんて、無意味なんですよ。サンドバックはただ吊るされているだけで動かない。ボクシングでは常に、動く標的にいかにパンチを当てるか、これを追求することが大切だと思うんです」。
山田さんはこの理論のもとに、2年前の東日本新人王トーナメントで、子飼いの選手を決勝まで押し上げた実績がある。我が家(上尾)とジムのある鴻巣は近いので、これからもボクシング談義ができるのが楽しみだ。
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