夢かうつつか、酔いどれ記者が行く
芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』
酒に勝てず 天才・ピューマ渡久地
埼玉池田ジムの池田伸夫氏にスカウトされて、ビクトリージムからプロの道を歩き始めた元日本フライ級チャンピオンのピューマ渡久地こと渡久地隆人は、世界チャンピオンになるべき素質を持ちながら、なれなかった。主たる原因は、酒に負けたからだ。「酒に溺れなかったらなあ」。酔いどれ記者の私はつくづくそう同情する。
昭和30年代に“フライ級3羽ガラス”と称された逸材が、国内のボクシング人気を一気に高めたという。実績を残した順に言えば、ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利の3人だ。原田氏は「一番素質があったのは青木で、俺はビリだった」と言う。
ところが、残した業績の大きさは、世界王座2階級制覇を果たした原田氏が一番だ。海老原も2度世界の王座に就いている。酒に溺れた青木は1人だけ世界タイトルを取ることができなかった。
この構図がどうしても渡久地に当てはまるような気がしてならない。高校時代から定評のあった渡久地、川島郭志、鬼塚勝也のトリオがそろって1988年春にプロ入りした際、われわれマスコミは“平成の3羽ガラス”と、もてはやしたものだ。
彼らも期待に応えてくれた。デビューした年の東日本新人王トーナメントのフライ級決勝で、下馬評で分の悪かった渡久地が川島をKOして優勝したのは、その時点での実力差だったと思う。
その後にも苦いKO敗を喫した川島は、打たれ弱さをカバーするために“アンタッチャブル”と称される、鉄壁のディフェンス術を構築して、93年にWBCのジュニア・フライ級チャンピオンになり、それ以前に努力家の鬼塚もまた、WBAの同級王座に就いている。
取り残されたのは皮肉にも、川島に勝っている渡久地だけ。どこからその差が出たのだろうか。前項で触れた勇利との対戦をキャンセルして、いうところの“敵前逃亡”をしたのがその起点だ。
試合中止に関するビクトリージムの発表は、ロードワーク中の右足首捻挫というものだった。池田氏がこっそり教えてくれたところによると、実際には飲酒の上、暴力ざたを起こし、右コブシを骨折したためらしい。
そのような理由で、大事な試合をキャンセルして、のうのうとジムに在籍しているほどあつかましい渡久地ではない。ジムとボクシングから離れ、一時は建設作業員をしていたそうだ。
それが池田氏の耳に入り、こっそりとコンビを組み、鴻巣の倉庫で二人っきりのトレーニングで、リング復帰を目指すことになるのだ。難関を乗り越えて渡久地はリング復帰を果たすが、ボクサーとしての岐路ともいうべきところで失ったチャンスと時間は、あまりにも大きな負の財産だった。
あの時点で渡久地と勇利が、ベストコンディションで戦っていたら、高いパーセンテージで、渡久地にも勝機はあったと思う。アマ出身の勇利はプロのたくましさを身につけつつ、破竹の勢いで世界チャンピオンになった。
渡久地はもはや、川島をKOした時のような鮮烈なイメージがないまま、平凡なカムバックロードを歩き、十番TYジムに移籍後の96年8月、世界チャンピオンの勇利に挑戦したが、相手にならなかった。両者のたどった道を比べても、その時ばかりは、渡久地に勝機を見出すことはできなかった。ジムの会長になった今、失った世界チャンピオンという大きな財産を、後進の指導によってぜひ取り戻してもらいたい。
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