前田 衷 (「ワールドボクシング」編集長)
前回に続いて「海外試合の勧め」を書く。 一ボクシング・ファンとして筆者が尊敬するボクサーの一人に、エディ・パーキンスがいる。とても地味なボクサーで、「世界の名ボクサー100」に選ばれるような選手ではないが、パーキンスには「リングの親善大使」とか「グローブ・トロッター(地球を駆け回る男)」というニックネームがあった。ヨーロッパ(ロンドン・パリ・ミラノ他)、中南米(サンパウロ、カラカス、ブエノスアイレス他)、北米(ケベック、メキシコシティ他)、オーストラリア(メルボルン)、アジア(東京、マニラ他)、アフリカ(ヨハネスバーグ他)と文字通り世界五大陸に足跡を残し、23ヵ国45都市で試合をした。地元判定で負けることもあったが、ほとんどは判定勝ちだった。敵地で当たり前のように判定勝ちを飾ることができたのは、世界どこでも通じるテクニックの持ち主だったからである。筆者ばかりでなく同業のボクサーたちさえ彼に敬意を表したのはまさにこの点にある。 世界J・ウェルター級チャンピオンとして初めて日本にやってきたのは今から40年近く前、1964年1月4日。東京・蔵前国技館で高橋美徳の挑戦を13回KOで撃退している。この階級のタイトル戦が行われたのは日本では初めてのことで、当時「重量級」と呼ばれていたのもいまでは隔世の感がある。それゆえ、高橋が終盤13回まで立っていたというだけで「善戦健闘」と称えられたものだった(当時世界戦は15回戦制)。 パーキンスは19歳でプロ転向し38歳で引退するまで19年間に98度リングに上がり、74勝20KO20敗3引き分け1ノーコンテストのレコードを残している(リング誌年鑑による)。そのほとんどが敵地のリングであったことを考えれば、これは驚異的である。アメリカ国内でも大体が相手のホームリングでの試合であり、純粋に地元シカゴのリングに上がったのは少ない。世界タイトルマッチをやるようになってから、14年間に地元で戦ったのは僅か4回しかないのである。 トータル5度日本のリングに上がっているが、世界チャンピオンとして戦ったのは高橋戦だけで、その後は「元チャンピオン」として来日し、ライオン古山、辻本英守、龍反町と日本の”重量級”のトップ選手を総なめにしている。最後は辻本章次(現西日本ボクシング協会長)に判定負けして、兄の仇を討たれたが、すでに衰えは隠せなかった。この後もう1試合して、パーキンスはプロ生活にピリオドを打っている。 タイプは「右のボクサー型」。身長165センチとこの階級でも特に小柄で、非力といっていい。しかしシカゴのクーロンジムで師匠ジョニー・クーロン(元世界バンタム級チャンピオン)に教え込まれたテクニックは超一流。卓越したディフェンス勘で相手の攻撃をことごとくかわし、独特のフリッカー・ジャブで相手の前進を阻み、距離を保つと同時にポイントを稼ぐ。反町やら1階級の上の強打者たちの得意のパンチをヒョイヒョイと外すさまは、まさに職人芸だった。 決して相手をねじ伏せるような派手なボクシングではないから、熱狂的なファンがつくこともない。ほとんどホームタウンのシカゴで試合をしたことがないのも、なるほどと思わせる。この階級のホープを抱えるマネジャーたちからすれば、ホープが壊される危険はないし、ひょっとすると勝てるのではないかという気にもなる。従ってパーキンスにはどこからも声が掛かり、世界のリングで稼ぎまくることができたのである。 このパーキンスほどのディフェンス・テクニックを持った選手を育てれば、指導者もさぞかし楽しいことだろう。マッチメークに頭を痛めることもなく「いつ、どこで、誰とでも戦う」と称して、世界中どこにでも出かけて稼ぐことができる。願わくば、日本にもこんな選手が活躍してほしいものである。現役選手の中では、東洋太平洋S・ライト級チャンピオンの佐竹政一(明石)などは「日本のパーキンス」になり得る資質を持ったボクサーの1人だと思う。吉田欽一明石ジム会長も本場アメリカで試合をしたいとジョー小泉氏に依頼しているが、ぜひとも実現させてほしいものである。 今の日本のトップ選手の多くは、海外で戦った経験を持たない。興行面を考えれば、チケットの売れる人気選手であれば何もわざわざ不利な敵地まで出掛けて試合をする必要もない。しかし、せめて修行時代に敵地で試合経験を積むことはとても大切だと思う。例え勝てなかったにせよ、将来その選手がここぞの大勝負に挑む時に、こうした経験がきっと役立つはずだ。
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