サンデー・パンチ
粂川 麻里生
白井義男氏の遺したもの
昨年12月26日亡くなった白井義男氏の葬送式が、14日港区の飾り気のない教会で行われた。当日は多くの弔問客が訪れ、偉大なチャンピオンとの別れを惜しんだ。空は澄み、英雄・白井義男を天に送り返すのにふさわしい、強い風が吹く日だった。
僕も献花の列に加わらせていただいたのだが、あのダンディでチャーミングな白井先生の体が、目の前の壷に入ってしまったのだと思うと、涙が出そうになった。しかし、すぐに思いなおした。「白井義男」が、こんなささやかな容器の中に納まってしまうはずがない。これは、白井先生の“遺物”のひとつだ。白井先生が我々に遺してくださったものは、大きく、高貴で、人間らしく、魅力溢れるものだ。それは、ボクシングさえも超えて、永遠に輝き続けるものだろう。
大正12年(1923年)、関東大震災の年に東京で生まれた白井義男は、昭和18年(1943年)プロボクサーとしてデビュー、強打者ぶりを発揮して翌年までに6戦全勝5KO(すべて初回)の快進撃を見せたが、戦争の激化のため、キャリアは中断、白井自身、海軍航空隊に入隊していった。戦争はまもなく終わったが、過酷な戦地での生活は、復員した白井の体にも大きな爪あとを残す。かなり重症の坐骨神経痛を病んだ白井氏は、もはや戦前のように溌剌とは動けなくなってしまっていたのだ。
昭和21年にリングにカムバックした白井だったが、翌年までの成績は3勝3敗と苦しいもの。強打者串田昇には5回TKO負けの憂き目も見た。しかし、昭和23年7月15日、占領米軍総司令部(GHQ)のスタッフの一員だったアルビン・カーン博士が御徒町の日拳ジムを訪れた時、“伝説”が動き出した。GHQの資源局にいたカーン博士は、体育コーチ、とりわけボクシング・コーチの経験もあり、懐かしさもあって日本のボクシングジムにもちょくちょく顔を出していたのだった。「あそこにいるチャンピオンは? 」と、カーン博士はジムの関係者に尋ねたという。白井は、焼け跡で拾ったボロ布を自分で縫ったボクシング・シューズを履き、黙々とサンドバッグを叩いていた。「ああ、白井ですか。戦前はいいボクサーだったんですが……。腰を悪くしてしまって、もうトシだし、駄目じゃないかな」、「違う! 彼はチャンピオンだ。私には分かる! 」
白井とカーン博士はコンビを組むことになるが、たちまちのうちに信頼と友情・愛情によって結ばれた真のパートナーシップを確立する。「やはり、指導する者と受ける者とが一体になったときっていうのは、えらいパワーが出るよね。本来はそうならなければウソなんだけど」(白井氏の回顧談・本誌昭和57年増刊より)。技術的にも、ふたりは日本のボクシングに新風を吹き込んだ。白井はファイタースタイルが主流だった当時の日本では珍しいシャープなストレートパンチャーだったが、その「ナチュラルなタイミング」をカーン博士はきわめて高く評価した。ジャブとストレートを主体とし、攻防のバランスを重視した「科学的ボクシング」を叩き込まれた白井は、かつて敗れた3人のボクサー、串田、花田陽一郎、矢島栄次郎ともそれぞれ再戦し、ことごとく勝った。日本フライ級王座、同バンタム級王座を獲得した白井は、昭和26年にはホノルルに渡り、時の世界フライ級王者ダド・マリノをTKOにくだす大金星を挙げる。「世界王座を日本に」という、本邦ボクシング界長年の夢が手の届くものとなり、白井の世界挑戦実現の準備として、日本ボクシングコミッション(JBC)も発足した。
昭和27年5月19日。4万の大観衆を飲み込んだ後楽園球場で、世界フライ級新チャンピオン白井義男の手が挙がった。サンフランシスコ講和条約が発効して、日本がふたたび独立国になったわずか3週間後だ。敗戦に打ちひしがれ、自信を喪失していた日本国民に「世界一のベルト」がプレゼントされたのだった。
一躍国民的英雄となった白井は、多忙とプレッシャー、それに腰痛や年齢的衰えも克服して4度の防衛を果たした後、パスカル・ペレスに王座を追われ、再戦でも敗れて引退した。だが、カーン−白井コンビは、白井の引退後もなおボクシング界に大きな貢献を残してくれた。それは、チャンピオンかくあるべし、という模範的な姿である。白井がまだ選手だった頃は、カーン博士はこう言っていたという。「ヨシオ、よくオレのいうこと聞いて考えろ。お前の友人の選手仲間にも酒飲んだり夜遊びしている者もいるだろう。しかし、それではボクサーとしてすぐに駄目になってしまう。お前が一生懸命やって、引退するときに一生食うだけの金をつかんでやめるか、それとも今酒と女に狂って全部駄目にしてしまうか、どっちかにひとつだ。その代わり、今遊んじゃいけないことは、引退したら何やってもいい」と。しかし、実際白井が引退するとき、今度はこう言った。「昔青少年の憧れのマトだったお前が醜態を見せたら何と言われる。あれが往年の世界チャンピオンだった白井か、ああだらしない。そんな姿を見せちゃいけない」。カーン博士は、白井を指導することで得た「マネジャー料」に、一円たりとも手をつけておらず、引退する白井に「退職金」として差し出した。そんなカーン博士の厚意に白井氏も全幅の信頼を持って答え、晩年のカーン博士を家族として迎え入れ、臨終の際まで看取った。かくも純粋な友愛に貫かれた師弟関係が、その後どれくらいあっただろうか――。
カーン博士の教えを守った白井氏は、リンクサイド、また公の場に現れるとき、ほとんどいつも三つ揃えのスーツかタキシード、髪はオールバックに整え、いつも穏やかな微笑をたたえていた。その颯爽たる姿、晩年になっても変わらなかった軽やかな身のこなしを、僕たちは何度頼もしい気持ちで見つめたことだろう。もちろん、服装だけではない。引退後は、白井氏はボクシング界にどっぷり漬かることをおそらく意識的に避け、テレビの解説者席に座るのをほとんど唯一の接点としていた。あまりにも大きい自らの存在が、直接的にボクシング界に影響を及ぼし続けることを嫌ったのだろう。
また、白井氏は実業家に身を転じ、成功を収めたが、けっして荒っぽいビジネスはせず、ましてや「裏」の世界を近づけるようなことはなかった。白井氏のようなスポーツ界の英雄が、公私ともに完全に「クリーン」でい続けることは、僕のようなものが想像するよりもはるかに難しいことだったのではないだろうか。しかし、白井氏が清潔で凛とした生き様を貫いてくださったおかげで、ともすれば荒っぽい話になるボクシング界において内外からの尊敬が保たれたのだ。白井氏は、その生涯を通じて、我々日本国民、とりわけボクシングファンおよびリング関係者を導き続けてくださった。
ボクシング記者の長老・中川幹朗氏がかつて「ワールドボクシング」誌に書かれた、白井氏が世界王座を奪取した直後の後楽園球場の様子の描写が忘れられない。リングを降りて、控え室に向おうとする新王者白井を一目見ようと、通路脇に観客が押し寄せる。そこで館内放送が流れる。「押さないでください。押さないでください。白井は疲れております。白井は、大変疲れております」。それを聞いた人々は、その場で立ち止まり、リングを後にするヒーローの純白のガウンを満場の拍手で送ったという。多くの人々の目からは、涙が溢れ出していた。
もう一度、あの時の拍手で、あの時の日本人の心で、白井義男を見送ろう。白井先生、お疲れさまでした。本当に、ありがとうございました。
マリノ−白井戦の特設リング(後楽園球場)
*Box On!
編集部注:白井義男氏逝去に際し、複数の読者の皆様より、白井氏関連の「特集記事」また「増刊号」のご要望をいただきました。現在検討中ですが、とりあえず、昨年4月のワールドボクシング誌増刊号「日本のチャンピオン50年」に、白井氏の“弟弟子”でもある鬼頭鎮三氏の長文エッセイをはじめとする関連記事がございます。また、白井氏の著書『ザ・チャンピオン』(東京新聞社出版局)も古書店等で入手可能です。あるいは『カーン博士の肖像』(山本茂著・ベースボールマガジン社)も好著としてお勧めできます。
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