バトルホークの闘病報告 vol. 3

林 直樹

 3月15日(月曜日)午前10時

 北千住の病院に見舞いに行く。
 12日から再び入院生活に入った風間さんに、この前紹介した「遺伝子治療」「免疫治療」がどうなったかを尋ねた。 
 10日に千葉大学に遺伝子治療の質問事項を記載した書類をFAXで自宅に送ってもらい、11日にその書類を国立がんセンターの担当医師に見せて、相談した風間さんへの返答は厳しいものだった。
 「遺伝子治療で生き続ける可能性は1%もないと言われたよ。今のオレの状態までくれば。それと1年先のことよりも、これからは1か月単位で生活を考えた方がいいと言われた。サジを投げられたようなもんだよ。1か月先に死ぬと言われたら、ガックリするよな」
 抗がん剤による治療はもうない。抗がん剤の副作用で両手のツメに一定間隔に波状に刻み込まれていた横線は消えかかっている。風間さんの担当医師は、包み隠さずに風間さんに病状を説明する。しかし風間さんもひるんではいない。次なる突破口を考えていた。 「こうなりゃ、最後の秘密兵器を使うしかない。まず”これ”を少量から始めて、効いたら一気に勝負に出る。これは効くだろうから、がんの野郎が驚いて、浸潤している動脈を破るかもしれない」
 動脈が破れれば、そのまま出血多量で命は絶たれる。しかし、風間さんは決断していた。

 3月17日(水曜日)午前11時30分
 風の強い日だった。5階にある風間さんの病室を出て、喫煙所の長いすに風間さんと2人で腰掛ける。突風が激しく扉をたたき、ピュウピュウという音が鳴り止まない。
 「今日は彼岸の入りだな。仏滅なんだよ。今日からこの前、言ってた秘密兵器をやろうかと思うんだ。兄貴(良一さん)に昨日、言ったら、日が悪い日にやらなくてもいいじゃないかと言われたんだけど、やるよ」
 ボクは風間さんの勇敢で物怖じしないその姿勢をいつも尊敬していた。うらやましく思っていた。風間さんのボクシング人生は、一言で言うと「反骨」の連続だったと勝手に思っている。 しかし、風間さんは言う。
「反骨とか破天荒とかじゃないよな。性格的に追い風に乗るよりも、向かい風に向かって行く方が好きなだけだと思うよ。多分」
 高校時代は、1年で埼玉国体に出場して、3年ではインターハイでライト級チャンピオンになった。名だたるボクシングの強豪数校からの誘いがあったが、それをけって、当時、ボクシングでは弱小だった専修大学の門を自ら叩き、強豪校にのし上げた。1972年に全日本アマ・ライト級王者になり、74年に石丸ジムからプロ転向。この時も、当時、数多くの世界王者を輩出していた協栄ジムから勧誘された。しかし、風間さんは、兄で元プロボクサーの良一さんが通っていた日東拳に中学時代から通っていたため、日東一門の義理を優先した。
 アマチュア時代から自信家で型破りのボクサーだった。アマ時代は、当時、1972年ミュンヘン五輪の代表になるに十二分な実績がありながら、素行が悪いという理由ではずされたという伝説も残っている。しかし、実際は、五輪の代表候補強化合宿などで、選考する側にズケズケとものを言うその態度が嫌われたという。当時を良く知るボクシング関係者はそう明かしている。1969年には、日韓親善試合で、後にミュンヘンで金メダルを獲得した韓国代表選手を判定で破った実績もあった。「出ていたらメダルは取っていた」と今も自負する。
 もし風間さんが「追い風に乗る性格」だったら、金メダルも世界チャンピオンも限りなく近いボクサーだったに違いない。
 しかし逆風の中で、培ってきた心身は超人的だ。
 強風が依然と強い5階の喫煙所の長いすで話し込むうちに、女子マラソンの高橋尚子がアテネ五輪の代表選手から落選したことに話題を移した。
 「高橋は落胆しているはずだと思う。でも今だからこそ人間的に大きく成長するチャンスだと思うよ。もし高橋が、もう一度、心と身体を作り直し、世界記録を作ったら、ものすごい人間だよ。怪物かもしれない。神様が彼女にそこまで与えているか。楽しみだね。過去を振り返っても仕方ない。先を見なくちゃ。前進しなくちゃ」
 風間さんは、心底、向かい風が好きな人と思った。

(続く)

 ※読者の皆様へのお願い
風間さんは今、ギリギリのところでがんと闘っています。その闘いはものすごく険しく、厳しいものです。皆様の応援メッセージ、激励メッセージをお待ちしています。皆様からのメールを風間さんにお見せして、エネルギーにしていただこうと思っています。よろしくお願いいたします(林)。

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